誰も聞いちゃいない生い立ち2

さて上京の準備はまだしてないし・・・


・保育園
   いつから通っているのか覚えてない
   前日と前後する話もあるのかと・・・
   上手く話すことが出来なくてよく泣いていたそうな
   昔は割りと無口で泣くこともなくテレビの前でずっと座っていたとか
   覚えているのが、保育園には昼寝の時間があって寝ることが出来なかった
   眠れないから先生たちの部屋に呼ばれて先生達を独占していた記憶が・・・


・小学校2年生
   中耳炎になった記憶があるなぁ
   病院に行って中耳内に溜まった水を抜くときに何かを刺されたような・・・
   とにかく、耳鼻科なので鼻の洗浄が辛いのか大泣きしている子供を見て恐怖を感じていた


   初めて猫を飼う
   出会いは、銭湯に行く途中にある公園だった
   白黒模様の子猫がいた
   そのコはなぜかボクが近づいても逃げることがなく懐いて来た
   母親から「お風呂に入って帰るときにまだココにいたらつれて帰ろう」といわれて
   銭湯に向かった
   帰り道・・・
   その公園にあのコがいた
   母親は時間が空けばいなくなると思っていたらしい
   実際に猫の生態を考えればいくら子猫でも1〜2時間目立つベンチにいるわけがない
   でもそのコは待っていてくれた
   母親は約束だからと連れて帰ることを認めた
   名前を『リリ』と名づけた
   ボクに弟が出来た

   
   確か、この頃写生会で描いたボクの絵が賞を取り
   ソ連(現在のロシア)の美術館に展示されることになった。
   当時は、自分の描いた絵が手元に戻ってこないことにがっかりしていたが
   今思えば、デカイことをやらかしたなぁとw


・低学年〜中学年
   この頃からすでに足が速くクラスで自分よりも早いやつはいなかった
   ただ、別なクラスに足の速いやつがいてリレーのときはライバル心むき出しだった


   足が速いのは幼少期に歩き回っていて足の筋肉が強かったこともあげられるが
   遺伝というのも大きい
   親父は野球をやっていた
   母親は陸上をやっており当時、南部忠平氏から直接指導を受けたことがあるという
   ちなみに管内の100m記録を持っていたそうな


   南部忠平氏
   北海中学在学中から陸上部で活躍。1924(大正13)年に卒業して早稲田大学に進学。
   1932(昭和7)年、第10回オリンピックロサンゼルス大会の三段跳世界新記録を樹立、金メダルを獲得した。


   小学校3年生のときからお世話になっている先生がいて今でも年賀状のやりとりをしている
   毎年、「早く結婚しろ」と書かれている・・・


   小学校4年生のとき郊外の小学校に転校をする
   転校先の小学校は5クラスあって1000人以上のマンモス校だった
   それまではしない中心部の3クラス(ドーナツ化現象で)しかない小さな小学校にいたので驚いた
   しかも周りは田んぼしかなく、それまで田んぼを見たことがなかったのでカルチャーショックを受けた
   当時のやつらには都会っ子に見えたのかいじめられたなー
   それまでの学校ではいじめはなく転校生は大歓迎だったのにこの小学校は違った
   卒業までいめられっこといじめっこの両方を繰り返してた
   小学校6年間をずっと1組で過ごす
   そしてずっと足が速かった
   幼少期の残念な生い立ち(美少女時代)のせいか大の床屋嫌いだったww


・小学校6年生
   ボクは、足が速かったけど球技が苦手だった
   ドッジボールをやるとキャッチが出来ないので最後まで逃げ切るタイプだった
   キャッチボールもままならないほどの超ノーコン(後にアンダースローであることが判明)で野球をやると必ず1番センターだった
   ある日、サッカーをやった
   誰かが無造作に蹴ったボールに走りこみドリブルをした
   なぜか誰も追いかけてこない
   「アレ? また無視か?」いじめやいじめらたりを繰り返していたこの時期は
   ちょっとしたことが原因でいじめられる側になることもしばしばだったので
   不安になり振り返った


   みんなものすごい形相で追いかけてくるもボクのドリブルが早すぎて追いつかない
   この瞬間、ボクの中の何かが弾けた
   この前年にスペインW杯サッカーがあった
   その後、プラティニ率いる黄金の4人組のフランスとルムメニゲ率いる西ドイツの試合を見てある一人の選手に目を奪われる


   西ドイツ ゴールキーパー シューマッハ


   ボクのGKの価値観が変わった瞬間だった



とりあえずここまでかな
正直、昔過ぎて覚えてない・・・

誰も聞いちゃいない生い立ち

上京まであと4日。
なんの準備もしてない・・・(汗
ユニフォームどこ? かばんは?? シューズは???
大丈夫かなぁ・・・



誰も見ちゃいないとわかっていて
自分を振り返るつもりで生い立ちを書き綴ってみる。
ま、なにを書いても大丈夫・・・でしょう・・・



・母親が3度流産しかける
   もう、すでに大騒ぎですよ
   生まれる前からこんなんですもん(汗


・流産の危機を乗り越えるが逆子になっていることが判明
   生まれる前から落ち着きのないコだったらしい・・・
   逆子を治す運動があるらしくその運動のおかげで頭が下になった


・12月某日朝9時、旭川で無事に生まれる
   外を見ると雪が積もっていて真っ白だった
   親父が入ってはいけない分娩室に飛び込んできて
   手足の指がちゃんとついているか数えたというエピソードがw


   なんと生まれたときには髪の毛が1本も生えていなかったそうで
   前日に生まれたばかりの赤ちゃんがフサフサなのを見て
   「このコには髪の毛が生えてこないかもしれない」と思ったそうな
   ちなみにこのときの親父の記憶のいい加減さで親戚の人と
   漢字違いの同じ名前をつけられる
   

   親父曰く
   語呂が良かったんだよな


   ボクの名前はそんなん理由でつけられたww


・美少女時代???
   実家のアルバムを遡って見てみるとある時期から親父が女の子を抱っこしている写真が多数ある
   その・・・生まれた時に髪の毛が生えていなかったことから心配になった両親が
   ずっと髪の毛を伸ばさせていたそうな・・・
   保育園に入る前後までの写真は全て女の子w
   髪の毛を結わえてボンボンつけて・・・
   1コ上の従姉のお姉ちゃんと写ってる写真があるんだけど
   自分で見ても親父が見てもどっちがどっちなんだかわからないくらい似てるw   
   日光湿疹を持っていたらしいが歩くようになってからはずっと外にいることが多く
   常に真っ黒に日焼けしていて日光湿疹もいつのまにか治っていた
   ちなみにこの頃の写真を見ると℃-ute岡井千聖ちゃんみたいです
   

   

      
   こんな感じの幼少期


   この頃から赤が好きで赤い服ばかり着ていたので近所でも女の子で通っていたそうな・・・
   ある日、家の前で立ち小便をしていたら(男ですから)近所の女の子が
   「○○さん家の女の子が立ち小便をしてる!」と騒いだとかwww


   家の隣が材木屋さんだったので、出るおがくずが丁度いい保温になるらしく
   犬や猫がよく赤ちゃんを産みにきていてその子犬や子猫とよく遊んでいたそうな


   人見知りのしない可愛い女の子(?)だったのでよく誘拐されかけていたらしい(汗



初日はこんな感じで・・・

久しぶりに・・・

病気が治ると日記まで放置とはいかんですねw
確かに今はまったく症状が消えた。
心の病になると視野が狭くなる。自分しか見えない。
かの『夜回り先生』と呼ばれた水谷修氏はそういう状態を


『自分病』


と自身の著書に書いている。
自分しか見えないから考え方も自分が中心となる。
これは決して『我がまま』とは違うものだ。
自分の欲求や考えを押し通そうとするのが『我がまま』とするなら
『自分病』とは周りが見えなくなる。周りに対して興味がなくなるのである。
だから、自分しかみえなくなる。
自分が一番不幸のどん底にあるという状況に思えて逃げ道が『死』しかなくなるのである。
もちろん、ボクもそこまで追い詰められた。


実際に『死』を選ぶといろんな方々を悲しませ、かつ迷惑をかけることになる。
それは、誰もが常識的に思っていることだ。周りが見えているから。
だがしかし、心の病にかかるとその常識が覆される。
周りが見えなくなるから・・・


自分を追い詰めてしまう人のほとんどが
親や兄弟友達に迷惑はかけられないとして相談することをやめてしまう。
得てして、こういう人に限って周りから相談を受けることが多かったりする。
ボクもその一人。
でも、その考えは大きな間違い。
親や兄弟、友達だからこそ相談すべきなのだ。
困っているときにこそ助けてくれるのが親や兄弟、友達なのだ。


迷惑をかけるから・・・これは間違った優しさ。


返って、信頼していないことを意味している。
仮に耐え切れずに自ら『死』を選んだとしよう。
一番悲しむのは、親や兄弟、友達である。


「なんで、死ぬ前に一言相談してくれなかったんだ」・・・と。


ボクが中学3年生のときに他のクラスで胃癌でなくなった生徒がいる。
彼はテニス部でボクと同じクラスに彼と同じテニス部のヤツがいた。
亡くなった次の日、その同級生は授業が始まったにもかかわらず、ずっと泣いていた。
小学校から一緒だったボクにもどうすることも出来ず
ついには先生も何も言わなくなってしまった。
そんな彼が、ボソっと言った一言がある。


「ずっと一緒の部活だったけど、オレにはどうすることもできなかった・・・」


彼の流した涙には、『死』に対する悲しみ以外にも
どうすることも出来なかった悔しさも込められていたのだ。
胃癌はどうすることも出来ない。ましてや若年性の癌であるなら・・・
でも、心の病はどうにか出来る。
残された親や兄弟、友達に悔し涙を流させてはならない。


ボクは、もう立ち直った。
再び前を向いて歩き出した。

全快

完治したといっても過言ではないと思う。
不思議なもので症状が悪いと日記をまめに更新して
良くなるにつれて更新しなくなるw
最近はまったく・・・www


最近の暇つぶしはウィキペディアを見ることw
これ、見てるだけで半日はつぶれる。
雑学がものすごく得られるもの。
ローマ帝国(なんでこれなのかは別として)を見る。
そこに出てくる単語からまた別な窓が開く。
これ繰り返すと最初、何を調べてたのか忘れるんだけどw
最近のお気に入りはウィキペディア

回想録

沖縄はよかった。
住むにはちょっとアレだけど1ヶ月くらいはいたかったな。
琉球文化には驚かされた。
12世紀ごろにはその存在が確認されている。
同じ頃、我がふるさとの北海道では旧石器時代さながらのくらしが続いていたとか・・・
要するに北海道はその広大な土地に対して人の出入りや人口自体が少なさ過ぎて
北海道内での交流も少なく文化が発展するには条件が悪かったといえる。
畑を耕さなくても自然物の採取だけで十分に生きていけたのではないだろうか。
沖縄は、小さい島国であり東南アジアや朝鮮、中国とも交流があり
当然、いろんな国の人が出入りするため新しい文化や情報が入りやすく
発展するには好条件が重なっていたのである。


沖縄に行ってマリンスポーツや琉球学にハマり最終的に移住してしまうことを『沖縄病』というらしい。
それだけ沖縄には人を魅了する何かがある。





沖縄に帰りたい(ぉ

沖縄

社員旅行で沖縄に行ってきた。
ツアーは組んでなくて終日自由行動。
気の合う同僚と行き当たりばったりの行動をしてきた。


北海道生まれの北海道育ちのボクにとっては
沖縄は夢の土地である。


え〜、気温20度


寒いってば。
Tシャツに薄手の長袖、その上からジャケット羽織って丁度いい感じ。
秋田の9〜10月くらいの気温だった。
夕方になると海から冷たい風がくるので寒かった。
とてもじゃないけど、海になんか入れませんって。


沖縄は琉球文化といって本州とは独自の文化を誇ってきた。
「めんそーれ」等の独自の方言があるものの日本語由来の語族になる。


語れば長くなるのでウィキペディアでも見ようw


また、行きたいと思った。
住むにはちょっとって感じだが、2泊3日じゃ足りなさ過ぎる。
レンタカーのサイドブレーキひいたままで走行とかw
首里城の駐車場に入りそびれて2周したとかw




最終的には地元の人も行かないようなとこについたとか


いい観光だったw

新年

年が明けた。
(とっくのまえに・・・)
年末年始は仕事だった。
正月にだけは働きたくなかったが
秋田じゃテレビも民放3局しかないので特別に見たい番組もなく
だったら働いてもいいかと仕事をしていた。


体調は全然いい。
視界はとても晴れている。
8〜9割は治ったと思う。


先日、新しい上司が挨拶にきた。
新しいといっても以前一緒の店舗で働いていたので
特別なことがあったわけじゃない。
でも、このひとことを言われたときにはさすがこの人だと思った。


「みんな楽しく働いているかい?」


何気ないひとことだが、ボクにはこのひとが考えていることが全てわかった。
自分が店長になるときに一番影響を受けた人なので、
「あっ!」と思わせられたひとことだった。


やはり、この人には遠く足元にも届かない。
本来、上司というものは部下からこう思わせるものがなくてはならないのだと思った。